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聖ウィルヘルモ大司教   St. Wilhelmus Archiep.       記念日 1月 10日


 聖ウィルヘルモはフランスに有名なネヴェール候家の末である。少年時代その教育に当たったのは一人の伯父で、学徳並び備わったペトロというソアッソン出の司祭であった。このすぐれた師の指導の下に、少年ウィルヘルモは学問にも徳の道にも著しい進歩を見せた。
 長じて青年時代を迎えるや、彼は世の富や名誉を悉く捨てて叙階の秘蹟を受け、まずソアッソンで、後には花の都パリで聖務に携わった。然し司祭になっても、完徳の絶頂を極める努力になお不足があるように思われたので、彼は更に、当時多くの聖人賢人を出して名声さくさくたりしトラピスト修道院に入った。間もなくウィルヘルモは修道院で緒徳兼備の典型的人物と仰がれ、ついに衆望をになって同院の院長に挙げられたが、彼が兄弟達の最も賤しい僕に過ぎぬという事をはっきり悟ったのは却ってその時であった。
 彼は邪念が少しもなかったので。至純な心で祈りに耽る事が出来、また救霊の真理を深い所まで悟る事が出来た。とりわけ御ミサに対しては最も熱烈な信心と尊敬とを有していたので、その聖祭を行いながら落涙する事も決して珍しくはなかった。彼はその思いを述べて「イエズス様が毎日私共の罪の償いに、御自分を天の御父にお献げになる事を思うと、私は主がカルワリオ山で御死去になる様を見るような気がして、悲しくてたまらなくなる」と言っている。
 かように平和な修道院に隠れて、余念もなく修徳に励んでいる中に、ブルジュの大司教が逝去されると、ウィルヘルモはその後継者に選ばれた。謙遜な彼はその知らせを聞いていたく驚いたが。ただ従順を重んずる心から教皇の御旨に従って、ついにこの尊い地位についたのである。
 大司教に昇ってからの彼は、旧に倍する熱心を以て己を聖とする事に努め、その管下の人々を導くに何よりもまず実践躬行、身を以て範を示した。その生活振りは実際万人の鑑たるに恥じず、ささやかな欠点すら見出すに苦しむほどであった。
 彼は己を持するには厳を以てし、他に臨むには寛を以てした。「司教たる者は自分の罪ばかりでなく、己の治める信徒等の罪を悉く償わねばならぬ」とは彼が日常しばしば漏らしていた言葉である。
 彼は毎日厳正に自分の良心を糾明した。そして苟も悪いと認むべき所があれば、心の底から痛悔するのであった。
 彼は大司教になっても修道服を脱がなかったが、その下には人知れず苦行用の着心地の悪い肌着を着けていた。肉は会食の時でも、客には出させても自分では決して口にしなかった。そして信心に就いての談話を好み、そういう話の好きな人とは喜んで交際したが、やもすれば世間的な話ばかりするような人とは、決して快く語らなかった。貧しい人々や病める人々に対しては慈父の如く、しばしば彼らを見舞ってこれを慰め、ある時は私財を施して貧民を助け、ある時はその祝福や祈りの力で病者を癒した。彼は善き牧者のように迷える子羊なる罪人等を探し求め、これを天主の御許に連れ帰ったが、その柔和と親切のまごころから出る訓戒の言葉には、一人として逆らう力がなかった。彼はまたその広大な司教区を巡回して、至る所で霊感に充ちた説教をし、天主の聖言を述べ伝えた。
 当時のキリスト教界は、突如起こったアルボア派の異端に、大いなる波乱を生じた。これを深く憂えた聖大司教は、全力尽くして信徒の間に再び平和を快復し、謬れる者を真理に導き返そうとした。その為異端の最も猖獗を極めた地方に向けて真理闡明の旅路に上ろうとしたその間際であった、彼は病にたおれて再び起つ事が出来なかった。
 死期の近づいた事を感じた彼は、灰を振りまいた地上に横たわり、終油の秘蹟を受け、主の聖名に於いて心安らかに永眠した。時に1209年1月10日の事で、天主はその聖なる僕に光栄あらしむべく、彼の墓に数多の奇蹟を行わせ給うた。

教訓

 聖ウィルヘルモの生涯に於いて最も優れていたのは謙遜の徳である。この徳は心霊生活の指導者等に完徳の基と呼ばれている。一軒の家に就いても同様であるが、霊的生活もその基礎が丈夫でなければ遂には倒れてしまう。聖アウグスチノは「謙遜は我々の行為に先立つばかりでなく、之に伴い、且つ従う。尊大は我等の功績を根こそぎ奪い去る」と言い、聖グレゴリオは「傲慢は捨てられた者の印、謙遜は選ばれた者の印」と言った。故に我等も完徳に向かって進もうと思えば、すべからく謙遜でなければならぬ。